AI時代に、中高教育で子どもを縛り続けることは正当なのか?

小学校以降の教育は、義務ではなく「経路」であるべきだ

安承源(アン・スンウォン) · Wonbrand 代表 · 2026年5月18日


人は不思議なことに、いちばん長く縛られていた場所で学んだことを、あまり覚えていない。

小学校を終えると中学校へ行き、中学校を終えると高校へ行く。毎朝同じ時間に起き、同じ教室に座り、同じ年齢の子どもたちと同じ試験問題を解く。そうして一人の人間の十代の大半は、学校の中で過ぎていく。身体が最も速く変化し、感情が最も鋭くなり、自我が形づくられ、世界に対する感覚が開かれていく時期である。

それなのに、時間が経って振り返ってみると、学校で学んだ多くのことはぼんやりしている。

どの単元を学んだのか、どの公式を暗記したのか、どんな試験を受けたのか、どんな点数を取ったのかは、長くは残らない。むしろ社会に出て人と向き合いながら身につけた言葉遣い、お金を稼ぎながら知った責任、失敗を通じて得た感覚、何かを売ってみて知った市場の冷たさのほうが、はるかにはっきりと残っている。

学校は知識を与えたと言う。

しかし社会は結果を求める。

そして人間は、結果の前でより速く成長する。

ならば、もう一度問わなければならない。なぜ人間が最も速く成長する時期を、あれほど長く学校の中に留めておかなければならないのか。なぜ小学校以降も、すべての子どもが同じ教室、同じ時間割、同じ試験の中で、同じ方向へ育つべきだと信じているのか。

私は、公教育は小学校までで十分ではないかと考えている。

小学校は必要だ。人は読み書きができなければならない。計算ができなければならない。自分の物を管理し、順番を待ち、他者とともにいるための最小限の感覚を身につけなければならない。子どもが「社会」という地面の上に立つためには、最も基礎的な言語と規則が必要だ。小学校は、人間の基本OSである。

しかし基本OSを入れたあとも、全員が同じプログラムを動かす必要はない。

中学校以降、人間は分かれ始める。本の中で生き生きする子もいる。身体を動かすことで生きる子もいる。舞台の上で生きる子もいる。店で生きる子もいる。工房で生きる子もいる。カメラの前で生きる子もいる。コンピューターの前で生きる子もいる。人と向き合いながら早く成長する子もいる。

そのような子どもたちを同じ教室に座らせ、同じ方法で評価することは、教育というよりも束縛に近い。

学校は本来、子どもを社会へ送り出すための扉であるべきだった。

いつの間にか学校は、社会へ出ないための待合室になってしまった。

AI時代には、この問いをもう避けることはできない。

人間が勉強量でAIに勝てない時代に、子どもを中高教育に縛り続けることは本当に正当なのか。


1. 学校は、ある時代における正しい答えだった

学校は、ある時代における正しい答えだった。

文字を読めない人が多かった時代があった。計算ができなければ取引や労働から押し出される時代があった。国家が国民をつくり、会社が社員を必要とし、工場が労働者を必要としていた時代があった。その時代において、学校は強力な装置だった。

学校は人々を一定水準以上に引き上げた。家庭ごとに異なる出発点を、ある程度そろえた。読み書き、計算、規則感覚を教えた。決まった時間に来て、決まった席に座り、決まった仕事をこなし、決まった評価を受ける人間を育てた。産業社会は、そのような人間を必要としていた。

学校は知識機関であると同時に、標準化機関でもあった。

産業社会は標準化された人間を求めた。同じ時間に動き、同じ規則を受け入れ、同じ基準で評価され、組織の中で自分の役割を遂行できる人。学校はそのような人を育てた。だから学校は長く成功した。学校を通過した人は社会に入りやすく、社会は学校を通過した人を信頼した。

この構造の中で、義務教育は保護だった。

子どもがどんな家庭に生まれても、どんな親のもとに生まれても、最低限の教育を受けられるようにすること。文字を読み、数字を扱い、自分の名前を書き、社会から押し出されないようにすること。このときの「義務」は、子どもを抑圧する言葉ではなく、子どもを地面から引き上げる言葉だった。

だから小学校までの公教育には、今も意味がある。

小学校は、すべての子どもを最低限の地面の上に立たせる装置である。この地面がなければ、自由も揺らぎ、探究も揺らぎ、社会への入口も不安定になる。子どもが世界に自分の足で立つためには、最低限の言語、数の感覚、基本的な規則が必要だ。

小学校は地面である。

中学校以降は、道であるべきだ。

ところが現在の学校は、その地面を敷いたあとも、子どもを同じ部屋の中に長く留めておく。同じ時間割、同じ試験、同じ年齢、同じ基準。管理しやすい。比較しやすい。順位をつけやすい。

しかし、管理しやすい構造が、人間に合った構造だという意味ではない。


2. 中学校以降、子どもは分かれ始める

中学生になると、子どもは変わる。

身体が変わり、感情が変わり、欲望が変わり、他人の視線が重くなる。小学校の友人関係が一緒に遊ぶ関係に近かったとすれば、中学校以降の関係は互いを評価する関係になっていく。外見、話し方、お金、成績、人気、力、集団の中での位置が見え始める。

この時期、子どもたちは同じ速度では成長しない。

授業中に静かに座っているときに深まる子もいる。動いているときに考えが生まれる子もいる。人前で表現するときに生きる子もいる。一人で掘り下げるときに生きる子もいる。手で作ることで学ぶ子もいれば、売ってみることで学ぶ子もいる。現実にぶつかって初めて学ぶ子もいる。

しかし学校は、この違いを長いあいだ無視する。

子どもを同じ年齢でまとめ、同じ時間割を与え、同じ試験を与え、同じ方法で勤勉さを証明しろと言う。勉強型の子どもには、この構造が合うかもしれない。しかし技術型、芸術型、運動型、商売型、起業型、コンテンツ型、探究型の子どもにも同じ構造が合うとは限らない。

ある子どもは、学校で遅れているのではない。

学校がその子の作動する場所を用意できていないだけかもしれない。

この違いは大きい。子どもがおかしいのではなく、子どもが置かれている場所が合っていない可能性がある。水の中では速い生き物を陸に上げて、遅いと言っているようなものだ。ある子は教室より舞台で速く、ある子は試験用紙より手先で速く、ある子は発表より実際の顧客の前で速い。

教育は、子どもがどこで生きるのかを探さなければならない。

ところが現在の中高の義務教育は、その子がどこで生きるのかを確認する前に、一つの場所へ長く固定してしまう。そしてその場所に合う子を優秀と呼び、合わない子を不足していると呼ぶ。

名前をつけ直す必要がある。

それは不足ではない。

場所の不一致である。


3. 学歴は親世代の身分証だった

学歴は長いあいだ身分証だった。

良い学校を出たという事実は、多くのことを代わりに語ってくれた。勤勉だろう。賢いだろう。競争を通過したのだろう。組織の規則に耐えられるだろう。会社が求める方式に合わせて動けるだろう。学歴は、人を直接確認することが難しかった時代の圧縮ファイルだった。

だから親世代は学歴を信じた。

現在の50代以上、広く見れば1970年代生まれまでの世代は、学歴の力を身体で経験した世代だ。彼らにとって学校は階層移動のはしごであり、大学は就職の入口であり、卒業証書は社会が認める証明書だった。その世代が社会の中心にいるあいだ、学歴は力を持ち続ける。

しかしその世代が降りたあとの世界は変わる。

すでに今も、「学歴がすべてではない」という言葉は珍しくない。これからはさらに強くなる。どの学校を出たかより、何を作れるのかが重要になる。AIをどう使うのか、自分の問いをどこまで押し進めるのか、どんな成果物を出せるのか、人と市場の前で何を証明できるのかが、より重要になる。

学歴は能力そのものではない。

能力を直接確認しにくかった時代の、信頼の代替装置だった。

今は、人は自分の成果物を直接見せることができる。コード、映像、文章、製品、売上、プロジェクト、アカウント、ポートフォリオ、コミュニティへの貢献、AIを活用した結果が残る。言葉より成果物のほうが速い。卒業証書より作業物のほうが速い。

AI時代の身分証は、学歴ではない。

問いを立てる力と、成果物を作る力である。

親世代の身分証は、次の世代の身分証にはなれない。

だから今の親も揺れている。かつての親は、比較的単純な言葉を子どもに渡すことができた。勉強しなさい。良い学校へ行きなさい。良い会社へ入りなさい。その言葉は、ある時代の生存戦略だった。しかし今の親は、同じ言葉を言いながらも、心のどこかで別の問いを抱き始めている。

この道はまだ正しいのか。
子どもを学校の中に長く置き続けることは正しいのか。
むしろ子どもが自分のやりたいことを早く見つけるほうがいいのではないか。

その問いは、単なる親の不安ではない。

時代の信号である。


4. AIは勉強の意味を変えた

AIは学校の前提を揺さぶる。

かつて知識にアクセスするには、誰かを通さなければならなかった。先生が必要で、本が必要で、学校が必要だった。近くに聞ける人がいなければ、分からないことは分からないままだった。学校は知識への通路だった。

今は、子どもが直接聞くことができる。

AIは説明する。もう一度説明する。別の形で説明する。レベルを変える。例を変える。言語を変える。コードを書き、文章を直し、表を作り、比較し、要約し、反論し、再び整理する。子どもが問いを止めなければ、AIも止まらない。

人間は、勉強量でAIに勝つことはできない。

より多く暗記する競争は、すでに方向が変わった。より速く情報を探す競争も変わった。より長く座っている競争さえ変わりつつある。大切なのは、頭の中にどれだけ入れたかではない。何を問えるのか。どんな問題を自分の問題にできるのか。AIが出した答えをどう疑い、どう組み合わせ、どう現実で検証するのかである。

AI時代の教育は、暗記から問いへ移る。
正解から探究へ移る。
成績から成果物へ移る。

それでも中高教育は、多くの時間を、決められた知識を覚え、決められた答えを選び、決められた方法で評価されることに使っている。AIはすでに子どものそばにあるのに、子どもはAI以前の時代の訓練を繰り返している。

問題は、子どもが勉強しないことではない。

勉強の意味が変わったのに、大人たちが過去の勉強を今も未来の準備だと信じていることだ。


5. 学校がAIを教えると、AIも学校化する

ここで出てくる反論がある。

それなら学校でAIを教えればいい、という反論だ。

AIが重要なら、学校がAIを教えればいい。授業に入れ、教科書に入れ、課題に入れ、倫理教育に入れればいい。実際に世界はその方向へ動いている。多くの国がAIをカリキュラムに入れ、AIデジタル教科書、AI学習ツール、AIリテラシー教育、教師向けAIガイドラインを導入している。

しかし学校がAIを教える瞬間、AIも学校に似ていく。

決められた時間割の中に入る。
決められた課題が生まれる。
決められた使い方が生まれる。
決められた禁止線が生まれる。
決められた評価がついてくる。

AIは自由な問いの道具ではなく、もう一つの教科書になる。

AIの力は、決められた答えを速く探すことだけにあるのではない。問いを変え、思考を横にずらし、予想しなかった組み合わせを作り、子どもが自分の関心を最後まで追いかけられることにある。しかし学校がAIを教科にした瞬間、子どもはまた「AIをどう使えば点数を取れるのか」を学ぶ。

AIを知ることと、AIで考えることは違う。

未来の核心は、AIの使い方をいくつか覚えることではない。AIの前で、自分の問いを作り出す自由である。子どもは、AIに何を問うのか、どこまで押し進めるのか、どんな成果物を作るのか、どんな現実に接続するのかを、自分で決められなければならない。

AIを教科にする瞬間、AIはまた学校の柵の中に閉じ込められる。


6. AIには危険がある

AIは強い道具である。

強い道具は人を広げることもあれば、人を飲み込むこともある。AIは子どもにとって先生になることができる。友人になることもできる。相談相手になることもできる。世界を解釈してくれる声になることもできる。孤独な子どもはAIに寄りかかり、不安な子どもはAIに確認を求め、混乱した子どもはAIの答えを現実よりも信じてしまうかもしれない。

AIへの依存は、現実の危険である。

AIが現実の代わりになった瞬間、子どもは人とぶつかる力を失うかもしれない。AIがすべての答えを代わりに出してしまう瞬間、子どもは自分の判断を委ねてしまうかもしれない。AIがすぐに反応してくれる世界に慣れすぎると、遅く、不親切で、拒絶の多い現実に耐えにくくなるかもしれない。

AIチャットボットと若者のメンタルヘルスをめぐる事件や訴訟も、すでに出ている。AIは自由の道具であると同時に、依存の危険を持つ。

だからAI時代の教育は、子どもがAIの前でも自分の判断を失わないようにすることでなければならない。AIが答えても、立ち止まり、疑い、現実に照らし、人に確認し、結果で検証する態度を育てなければならない。

AIに危険があるように、学校にも子どもを傷つける危険がある。

AIが子どもを孤立させることがあるように、学校も集団の中で子どもを孤立させることがある。AIが子どもに誤った確信を与えることがあるように、学校も子どもに一生残る劣等感と傷を与えることがある。

問いは、AIか学校かではない。

問いは、子どもが自分の思考を失わずに育つ環境とは何か、である。

AIは現実から逃げるための道具であってはならない。現実へより速く向かうための道具であるべきだ。AIで問い、現実で作り、人に見せ、拒絶され、失敗し、また直す。その過程がなければAIは依存になる。その過程があれば、AIは教室よりも広い学びの場になる。

自由は放任ではない。

自由とは、自分の選択の結果により早く出会うことだ。


7. 学校は友人を与えることもあるが、傷を残すこともある

学校を擁護するとき、よく出てくる言葉がある。

学校では友人に出会える、という言葉だ。

その言葉は美しいが、半分しか語っていない。学校は友人を与えることもあるが、人によっては一生残る傷を残す場所でもある。特に中高は小学校とは違う。小学校の関係が比較的、無邪気な遊びに近いものだとすれば、中学生以降の関係には、序列、人気、外見、お金、成績、言葉の強さ、嫉妬、集団性が入り込んでくる。

その時期の子どもたちは、もはやただ純粋な子どもではない。人間の本性が顔を出す。誰かは集団を作り、誰かは排除され、誰かは嘲笑され、誰かは見えない場所へ押しやられる。いじめ、無視、外見評価、暴力、噂、グループチャット、沈黙の仲間外れは、人の心に長く残る。

その傷は卒業式で終わらない。
制服を脱いだからといって消えない。
大人になったからといって消去されるわけでもない。

三十代になっても、学校で受けた視線や嘲笑を覚えている人がいる。人の多い場所を避ける人がいる。新しい集団に入るたびに、まず緊張する人がいる。その人にとって学校は、社会性を育ててくれた場所ではなく、人を避ける方法を初めて学んだ場所になる。

良い友人に出会うことも、思ったより難しい。学生時代の友人は一生続くという言葉は、一部の人の記憶である。大人になれば、仕事、お金、家族、住む場所、価値観、生活の状況が変わる。三十歳を過ぎれば、学生時代の友人に会わない人も多い。学校に長くいたという事実は、良い関係を保証しない。

学校は友人に出会う場所だと言われる。

しかしある人にとって学校は、一生の傷が最初に始まった場所である。

この事実を抜きにして、中高の義務教育を語ることはできない。


8. 社会性は学校でしか育たないものではない

学校は社会の縮図だと言われる。

しかし実際の社会は、同じ年齢の人だけでできているわけではない。

社会には十五歳、二十五歳、四十歳、七十歳が混ざっている。人は同年代からだけ学ぶのではない。上司から学び、顧客から学び、先輩から学び、後輩から学び、高齢者から学び、子どもからも学ぶ。専門家から学び、失敗した人からも学ぶ。

学校は同じ年齢の子どもたちを一つの空間に入れ、それを社会性と呼ぶ。しかし社会性は、同年代集団の中だけで育つものではない。本当の社会性は、年齢も役割も利害も違う人とぶつかるときに育つ。

店で客に対応しながら社会性は育つ。
撮影現場でスタッフと働きながら社会性は育つ。
スポーツでチームとして動きながら社会性は育つ。
工房で師匠から学びながら社会性は育つ。
起業して顧客に断られながら社会性は育つ。
コンテンツを作り、視聴者の反応を見ながら社会性は育つ。
AIプロジェクトで問題を分解し解決しながら社会性は育つ。

社会性とは、教室に長く座っていられる能力ではない。

社会性とは、異なる欲望を持つ人々と向き合い、それでも崩れない能力である。

強制された集団が、いつも人を成熟させるわけではない。悪い集団は人を育てない。悪い集団は人を縮こまらせる。

子どもに必要なのは、現実との摩擦である。

強制集団の中で生まれる傷ではない。


9. 早い社会進出も教育である

早い社会進出とは、幼い年齢でお金を稼げという意味ではない。

自分の分野に早く出会うことだ。
現実に早く出会うことだ。
人に早く向き合うことだ。
結果を早く経験することだ。

ある子は、教室より舞台で早く成長する。
ある子は、問題集より店で早く学ぶ。
ある子は、教科書よりAIと格闘することで深く学ぶ。
ある子は、運動場で自分の身体を通して学ぶ。
ある子は、作業場で指先を通して学ぶ。
ある子は、起業しながら拒絶とお金の重さを学ぶ。

芸能人、スポーツ選手、起業家、技術者、商売をする人、コンテンツ制作者、芸術家、開発者、クリエイターは、みな違う方法で育つ。その中には、学校に長く通わなかった人もいる。小学校卒業、形式的な最終学歴の不足、検定試験、学校を離れる道を通った人もいる。彼らは、学校が人間成長の唯一の道ではないことを示す生きた場面である。

中学生だから社会をまったく知らないとは言えない。大人から見れば、高校生も中学生もどちらも若い。高校生ならよくて中学生ならだめだという線引きは、絶対的なものではない。子どもが社会と出会う方法は一つではない。

現場は子どもを早く大人にする。

人と向き合えば、言葉が変わる。
お金を扱えば、責任感が生まれる。
舞台に立てば、見られることの重さを知る。
顧客に断られれば、自分の考えが現実では通用しないこともあると学ぶ。
何かを作って売ってみれば、世の中は称賛ではなく結果で反応することを知る。

学校は準備を語る。

現実は結果を求める。

人間は結果の前でより速く成長する。


10. 義務教育が残るあいだ

制度は遅い。

学校は巨大な装置である。法律、予算、教師、入試、親の不安、企業の採用慣行、国家の管理体制がすべて絡み合っている。韓国では小学校と中学校が義務教育であり、高校は義務ではないが無償教育として運営されている。世界的に見ても、義務教育の年数は短くなる方向ではなく、長くなる方向に動いてきた。多くの国で、子どもたちは当面、中等教育まで学校に留まり続けるだろう。

だから現実的な問いがもう一つ生まれる。

中高教育が当分のあいだ義務であり続けるなら、あるいは事実上義務のように機能し続けるなら、子どもはその時間をどう通過すべきなのか。

答えは、学校を人生のすべてにしないことだ。

学校は最低限通過する経路として置き、本当の教育は学校の外で設計すべきである。出席と基本履修は制度への対応だ。自分の問い、AIによる探究、成果物の制作、社会経験は人生への対応だ。この二つを分けなければならない。学校が求める最低条件は制度への対応として処理しつつ、子どもの成長全体を学校に預けてはならない。

国語は試験科目ではなく、自分の考えを文章にする道具になるべきだ。
数学は点数競争ではなく、構造を見る訓練になるべきだ。
英語は内申科目ではなく、世界の資料と人にアクセスする通路になるべきだ。
情報は単なるコンピューターの時間ではなく、AIとソフトウェアを扱う入口になるべきだ。
社会科は暗記科目ではなく、お金、制度、権力、市場、国家がどう動くかを見る窓になるべきだ。

学校の科目を目的地にすると、子どもは試験用紙の中に閉じ込められる。
学校の科目を道具に変えると、子どもは学校を通過しながら自分の道を作ることができる。

義務教育が続くあいだ、親と子どもがすべきことは、学校の中で完璧な生徒になることではない。学校の外に、自分のプロジェクトを一つ作ることだ。文章、映像、アプリ、商売、運動記録、絵、音楽、実験、製品、コンテンツ。何であれ、成果物として残す必要がある。AIはその成果物をより速く作り、修正するための道具になる。

放課後、週末、長期休暇は、単なる休息時間ではない。自分の経路を試す時間だ。子どもが何を好きなのかは、言葉で聞くだけでは分からない。やってみなければ分からない。舞台に立ってみて初めて舞台型かどうかが分かり、売ってみて初めて商売型かどうかが分かり、作ってみて初めて制作型かどうかが分かり、ぶつかってみて初めて現場型かどうかが分かる。

AIは学校の外の個人教師になり得る。しかしAIだけに頼ってはならない。AIで学び、現実で検証しなければならない。AIが文章を手伝ったなら、人に見せるべきだ。AIが商品アイデアを助けたなら、実際の利用者に聞くべきだ。AIがコードを書いたなら、実際に動かすべきだ。AIが進路を分析したなら、現場の人に確認すべきだ。

AIは現実を代替する道具ではない。

現実へより速く行くための道具だ。

学校生活で最も注意すべきものは、成績だけではない。関係による傷である。子どもが学校で継続的に崩れているなら、それを単なる適応過程と呼んではならない。学校は子どもを育てる場所であるべきであり、子どもが毎日尊厳を失う場所であってはならない。強制された集団が子どもを傷つけるなら、経路を変えるべきだ。転校、オルタナティブスクール、オンライン教育、検定試験、ホームスクーリング、職業教育、芸術・スポーツの経路を、実際の選択肢として置く必要がある。

耐えることが、いつも教育であるとは限らない。

ある子にとって耐える時間は成長であり、ある子にとっては損傷である。この二つを区別しなければならない。親の役割は、子どもを何が何でも学校に合わせることではなく、その子がどこで生きるのかを観察することだ。

学校は通過できる。

しかし人生を学校に預けてはならない。


11. 未来の教育は建物ではなく、経路である

未来の教育は、一つの建物ではなく、複数の扉であるべきだ。

小学校以降、すべての子どもが同じ方法で育つ必要はない。AI自己探究型の道が必要な子もいる。ホームスクーリング型が必要な子もいる。職業体験型が必要な子もいる。徒弟型が必要な子もいる。起業・商売型が必要な子もいる。芸術・スポーツ型が必要な子もいる。コンテンツ型が必要な子もいる。プロジェクト型が必要な子もいる。研究型が必要な子もいる。現場実習型が必要な子もいる。

一つの道だけを正常とすれば、その他の子どもはすべて例外になってしまう。

勉強型の子どもにとっては、学校が合うかもしれない。しかし技術型の子どもにとっては、工房が学校になり得る。運動型の子どもにとっては、競技場が学校になり得る。コンテンツ型の子どもにとっては、カメラと編集ソフトが学校になり得る。商売型の子どもにとっては、市場と顧客が学校になり得る。探究型の子どもにとっては、AIと問いが学校になり得る。

教育は建物ではない。

教育は経路である。

中学校と高校という一つの建物にすべての子どもを入れ、そこで耐える時間を成長と呼ぶ方式は、AI時代の人間を受け止めきれない。

中学校以降の教育は、義務ではなく選択であるべきだ。

子どもを社会から長く保護することが、必ずしも子どもを強くするわけではない。保護が長くなるほど、子どもが現実に出会う時期は遅れる。失敗も遅くなり、お金を扱うのも遅くなり、人と向き合うのも遅くなり、自分の才能を確認するのも遅くなる。

育てることの目的が、子どもを握りしめることではなく手放すことだとすれば、教育の目的も同じである。

教育の目的は、子どもをできるだけ長く縛ることではない。

子どもが自分の道により早く出会えるようにすることだ。


参考資料

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