視覚障害者が見るための方法についてのさまざまな考察

視覚の骨伝導はどこにあるのか

安承源(アン・スンウォン) · Wonbrand · 2026年8月4日


骨伝導イヤホンが教えてくれること

骨伝導イヤホンは耳をふさがない。頬骨の上に乗せているだけなのに音が聞こえる。

初めて使うと少し不思議だ。耳は開いているのに音楽が頭の中で鳴る。しかし本当に驚くべき点は別のところにある。

覚えることが何もない、という点だ。

使い方を習得する必要がない。振動を音として解釈する訓練もいらない。電源を入れればそれはもう音である。なぜだろうか。

音が耳に入ってくる道はこうなっている。外耳が音を集め、鼓膜が震え、その震えを三つの小さな骨が増幅して蝸牛に渡す。蝸牛がそれを電気信号に変えると、聴神経が脳へ運ぶ。

骨伝導はこのうち前の三段階を飛ばす。頭蓋骨を直接揺らして蝸牛を鳴らす。しかし蝸牛から後ろには何も手を触れない。

通常    外耳 → 鼓膜 → 三つの小骨 → 蝸牛 → 聴神経 → 脳
骨伝導  ──── 飛ばす ────→ 頭蓋骨 → 蝸牛 → 聴神経 → 脳
                                      ↑
                        ここから先は元どおりに働く

だから覚えることがないのだ。脳から見れば、いつもと同じ信号がいつもと同じ道を上ってくる。前の方で何があったのかを脳は知らない。

これが感覚をすり替える方式との決定的な違いである。音を振動に変えて背中に伝える装置もあるが、それは新しい言語を覚える作業だ。数か月かかる。骨伝導は覚えない。

そこで問いはこうなる。視覚にもそういう場所があるのか。前の方だけを飛ばして、残りは元どおりに働かせられる場所が。

フィルムだけが傷んだカメラ

ここで少し驚くべき事実を一つ押さえておきたい。

失明の多くはいちばん手前で起きている。

目に入った光は網膜にある光受容体が受け取る。これがフィルムの役割だ。フィルムが変換した信号は何段階かを経て網膜神経節細胞が整理し、視神経が脳へ運び、中継地点である外側膝状体を通って後頭部の視覚野に届く。そして顔は紡錘状回顔領域という専門の回路が見分ける。

網膜色素変性症も黄斑変性も、光受容体が死ぬ病気である。つまりフィルムが傷んだのだ。

ではその後ろは。神経節細胞も、視神経も、外側膝状体も、視覚野も、顔専門の回路も、ほとんどが生きている。

失明した人の多くはフィルムだけが傷んだカメラだ。レンズも無事、配線も無事、現像所も無事である。

そうなると答えは単純になる。フィルムの次の場所から入ればいい。

そしてここにこの文章でいちばん重要な点がある。いったん入ってしまえば、顔は顔専門の回路が見分ける。

つまり「この人はお母さんです」と教える必要がないということだ。それはその回路が一生かけてやってきた仕事である。こちらは材料を入れるだけでいい。

この区別が重要だ。顔を音の信号に圧縮して「リズム三回に金属的な音色ならお母さん」のように伝える方式も考えられる。しかしそれは顔ではなく名札である。脳の中にすでにいる専門家を遊ばせておいて、その仕事を代わりにやろうということでもある。


ではどこから入るのか

入れる場所はいくつもある。場所ごとに必要な方法が違い、助けになる相手も違う。

網膜の内側へ入る方法がある。目はすでに開いた窓なのだから、目の表面から電気で生きている神経節細胞に触れるのだ。光受容体の病気に当たるのでいちばん多くの人に合う。

網膜を丸ごと飛ばす方法もある。鼻の奥には蝶形骨洞という空洞があり、そこが視神経の交差する地点から数ミリしか離れていない。そしてこの空間は鼻を通って入ることができる。頭蓋骨を開けずに脳の中へ場所を確保する、ほぼ唯一の道である。

さらに奥へ行くと外側膝状体と視覚野がある。目も視神経も全部飛ばす場所だ。ここまで行くには頭の外から脳の深い場所を正確に狙わねばならず、それがこれまでできなかったことである。後ほど述べる。

そしてもう一本、脇道がある。視神経線維の一割ほどは視覚野へ行かず、上丘という別の場所へ向かう。視覚野が損なわれた人が「見えない」と言いながら目の前の障害物をよけるという現象があるが、それはこの脇道のせいだ。誰もこの道を意図して狙ったことがない。

整理するとこうなる。

入る場所何を飛ばすか主に誰に
網膜の内側(神経節細胞)傷んだフィルムだけ網膜色素変性症、黄斑変性 — 失明の多数
視交叉(鼻の奥の空間経由)網膜を丸ごと網膜全体の損傷、眼球摘出
外側膝状体・視覚野目も視神経も全部緑内障末期、視神経損傷
上丘(脇道)視覚野さえ迂回する皮質盲

表を見ると分かることが一つある。「視覚の骨伝導」は一つではない。どこが壊れているかによって、入る扉が変わる。


懐中電灯を二つ重ねると

ここからがこの文章でいちばん新しい話だ。

頭の外から電気を流して脳を刺激するのは古い技術である。ところがこれがいつも鈍かった。頭皮に電極を貼ると電流が頭蓋骨全体に散ってしまう。脳の中の特定の一点だけを狙うことができない。

鈍ければ絵は描けない。絵が描けなければ顔は永遠に無理だ。ここが行き止まりだった。

だが、ひねる方法がある。

神経細胞には一つの性質がある。速すぎる信号は無視する。毎秒数百回を超えるとついていけず、無いものとして扱う。

この性質を使うとこうできる。

一方の電極から毎秒2,000回振動する電流を流す。速すぎて神経は無視する。もう一方の電極からは毎秒2,010回のものを流す。これも無視される。

ところが二つの電流が重なる地点では、二つの波が干渉して毎秒10回というゆっくりしたうなりが生じる。これは神経が反応する速さである。

つまり電流が通り過ぎる道では何も起こらず、重なった場所でだけ効果が出る。

懐中電灯を二つ、別々の角度から当てると重なった場所だけが明るくなるのと同じだ。ただしここで重なるのは明るさではなく周波数の差である。

この方式は2017年にマウスの実験として発表された。頭蓋骨を開けずに脳の深部だけを刺激することに成功している。ところが、まだ誰もこれを視覚に使っていない。

なぜだろうか。この技術を研究する人たちはパーキンソン病やうつ病といったものを狙っており、視覚の側の人たちは「電極を何本埋めようか」しか考えていない。二つの集団が出会ったことがないのだ。視覚野は後頭部のすぐ内側で、むしろ近づきやすい場所だというのに。


ブラウン管テレビの秘密

重なった場所でだけ効果が出るのも良いが、本命はその次だ。

重なる場所は動かせる。電極を物理的に動かすのではなく、各電極に流す電流の比率を変えるだけで交点が移動する。スイッチ操作だけで動くということだ。

動かせるならなぞれる。なぞれるなら絵が描ける。

ここで昔のブラウン管テレビを思い出してほしい。あの重たいテレビの中には画素が一つもなかった。電子ビーム一本が画面を上から下へ猛烈な速さでなぞって通り過ぎただけだ。人の目がその残像を一枚の画面としてまとめて見ていた。

同じことを頭の中でやる。刺激点を一つ、毎秒何十回もなぞって顔を描く。

これがなぜ重要かというと、これまで視覚補綴の画質は電極を何本埋めたかで決まってきたからだ。60本埋めれば60画素。だから誰もが電極を増やそうとし、そのぶん手術が大きくなった。

なぞる方式はその軛から外れる。電極数本で画素を数百つくる。

このアイデアに名前をつけるなら干渉の筆といったところだ。

これを殺せる問いが一つある。交点をどこまで小さくできるか。視覚野で視野1度に相当する広さはミリ単位なのに、交点がセンチ単位ににじんでしまえば絵ではなく染みになる。この一つでアイデア全体が生きるか死ぬかが決まる。

幸いなのは頭部モデルに電場計算をかければ答えが出るということだ。人に何かを当ててみる前に、計算だけで決着がつけられる。

画面はすでについている

まったく別の方向へ行ってみる。おそらくこの文章でいちばん奇妙に聞こえる話だが、根拠はいちばん確かだ。

シャルル・ボネ症候群というものがある。

視力を失った人が鮮明な幻視を見る現象だ。人の顔、模様、建物、風景がはっきりと見える。精神疾患ではなく、本人もそれが本物でないと分かっている。視覚を失った人のかなりの割合が経験する。

なぜこんなことが起きるのか。視覚野に入ってくるものが途切れると、その回路が自分で映像をつくり始める。入力がないのでノイズを増幅して絵に仕立てるのだ。

この事実を裏返して読むとこうなる。

視覚を失った人の脳の中で、映像生成装置は今も動いている。画面もついている。操縦できないだけだ。

これまで医学はこれを取り除くべき症状としてのみ扱ってきた。患者を安心させ、ひどければ薬で抑えた。これを使える資源として見た人がいない。

では、どう操縦するか。

夢を見ているときに目覚ましが鳴ると、その音が夢の中に入ってくる。電話のベルが夢の中の電話になり、水の音が夢の中の雨になる。映像生成装置が全開で回っているときは、ごく弱い外部信号でも内容に取り込まれる。

幻視も同じではないだろうか。幻視が始まる瞬間を脳波でとらえ、まさにその瞬間に弱い手がかりを流し込む。

この方式の魅力は必要な力がはるかに小さいことにある。無い絵をゼロからつくるのではなく、すでにつくられつつある絵の向きを変えるだけだからだ。

同じ発想から出てくるアイデアがいくつかある。

夢で顔を植える方法。眠っている間に特定の音を聞かせると、それに結びついた記憶が強まることはすでに確認されている。眠っている間にある人の声を聞かせれば、夢がその人の顔をつくり出す。声と顔を毎晩くっつけておけば、やがて声だけで顔が思い浮かぶ。装置が毎回顔を描いて送る必要がなくなる。

間違いだとだけ伝える方法。脳は常に先を予測しており、視覚はその予測を修正する役割を担っている。失明すると修正が効かないので、予測が勝手に流れていく。ならば絵を丸ごと送るのではなく、「あなたの予測はこちら側にずれている」だけを送ればいい。運ぶ情報がはるかに少なくなる。

これは尋ねるだけで確かめられる。シャルル・ボネ症候群のある方に、幻視が見えている最中に音や触覚の刺激を与え、幻視の内容が変わるかどうかを伺えばよい。機材も手術も要らない。それなのに、誰もこの問いを立てたことがない。

正しく裏返すと、信号は向こう側から来る

このプロジェクトはもともと透明人間の装置を裏返すところから始まった。

その装置はこういう構造だった。スーツを着た人が自ら信号を出して、周囲の人の意識から自分の存在を消す。体はそこにあるのに、誰も「あそこに人がいる」と気づかない。

ここで信号を出す側は見える人だった。

これを裏返すというと、たいていは「視覚障害者の側に装置をつける」を思い浮かべる。しかしそれは半分しか裏返していない。きちんと裏返すなら、信号を出す側は依然として見える人でなければならない。

透明人間  見える人が信号を出す → 他人の意識から自分を消す
逆構造    見える人が信号を出す → 見えない人の意識に自分を入れる

つまりこういうことだ。人が自分の顔の情報を自ら送り出す。バッジでも、携帯電話でも、襟につけた小さな目印でもいい。カメラで他人の顔を隠し撮りするのではなく、本人がスイッチを入れて送るのである。

この一手が一度に解く問題は多い。

プライバシーの問題が消える。同意が構造の中に組み込まれているからだ。暗さも関係ない。カメラが要らないからである。距離も問題にならない。電波は遠くまで届く。鞄や腕に隠れても通り抜ける。そして顔写真を送る必要がないので、画素不足という問題そのものが消える。

なぜまだ誰もやっていないのか。

補助機器という分野が「障害者がすべての負担を負う」という前提の上に立っているからだ。誰も、障害のない側に何かを求めない。

ところが点字ブロックはまさにそれをやった。視覚障害者が特別な靴を履いたのではなく、社会が地面を変えたのだ。エレベーターのボタンの点字も、横断歩道の音響信号機も同じである。すべて環境の側が信号を出す方式だ。

同じ系統でいくつか出てくる。電子機器なしで眼鏡のフレームや襟につける小さな反射目印 — 電池も同意手続きも要らず、夜間の道路標識のように暗いほどよく捉えられる。階段や扉や柱がそれぞれ自分は何かを知らせる小さなタグ — 重いセンサーを全部体に載せる必要がなくなる。さらには化粧品に混ぜるという手もある。晴眼者の目には見えず、装置にははっきりと映る目印だ。「目印をつけろ」という要求は社会的に受け入れられにくいが、見えなければ受け入れられる。


周波数は筆ではなく、筆を置く手である

周波数で顔が見えるのか、という問いに正面から答えたい。

周波数そのものが顔を運ぶことはできない。顔は空間の情報である。どこが明るくどこが暗いかが配置されて初めて顔になる。ところが周波数は一次元なので配置を載せられない。

だが周波数がすることが三つあり、そのうち一つが決定的だ。

一つめ。周波数を変えると見える光点の性質が変わる。明るさや大きさが変わる。電極一本が複数の画素の役を果たせるようになる。有用だが補助的だ。

二つめ。ラジオのチャンネルのように、複数の信号を周波数で分けて同時に送れる。これも補助的である。

三つめが本命だ。二つの高い周波数を交差させると、その差にあたるゆっくりした信号が交点にだけ生じる。先ほど述べたあの原理である。

つまり正確な答えはこうだ。周波数で顔を見るのではなく、周波数のおかげで顔を描く場所を打てるようになる。直感は当たっていた。周波数は筆ではなく、筆をその場所に置く手だったのだ。

顔は思ったより少ない情報で見分けられる

ここで嬉しい事実が一つ出てくる。

1973年に有名な実験があった。リンカーンの肖像を大きな四角い塊に潰して見せたところ、縦横十六マス程度あれば人々はリンカーンだと分かった。

顔の認識が細かい模様ではなく、大づかみな明暗の配置で成り立っているからだ。眉の下が暗く、鼻の脇が明るく、顎の線がこう落ちる — この塊の情報だけで我々は人を見分けている。

これは良い知らせだ。画素が数百あれば顔になる。数万も要らない。先ほど述べたなぞる方式で十分に届く数である。

ここにいくつか加えると、さらに有利になる。

写真ではなくカリカチュアを送ること。その人が平均的な顔と違う点をAIに誇張させた絵を送る。カリカチュアのほうが実際の写真より速く識別されるという研究がある。画素が足りないほどこの方式が有利になる。

顔はいつも同じ場所に描くこと。相手がどこに立っていようと、顔は常に正面、真ん中、同じ大きさで描く。どこにいるかは別の手段で伝える。角度と距離の変化を取り除けば、その狭い通り道は「誰なのか」だけに使われる。

わざと少し揺らすこと。人の目はじっとしているようで、休みなく細かく震えている。この震えがないと見えていたものが消える。静止した刺激は数秒で知覚から消えてしまう。だから刺激のパターンも少し揺らさねばならないのだが、これを最初から設計に入れた視覚補綴はまだない。


顔を解く三つの道

顔がいちばん重要な要件なので、別に整理しておきたい。原理がまったく違う三つの道がある。

一 — 描いて見せる

視覚経路に入って実際に顔の絵を入れる。干渉の筆がこの道だ。成功すれば本当に見ることにいちばん近い。ただしまだ誰も試していない。

二 — 相手が送ってくれる

顔の発信機のほうだ。この道の長所は今すぐつくれることである。脳にまったく触れないので研究が要らない。残る問題は技術ではなく社会的な受容だけだ。

三 — 触って知る

視覚障害者が実際に顔を知る方法は手で触ることである。これを遠隔に広げればいい。

三次元カメラで相手の顔の起伏を読み取り、手に触れる面に実際の凹凸として再現する。鼻が出て、目がくぼむ。信号ではなくかたちである。

この方式には覚えることがない。すでに一生やってきたことを遠くからやるだけだ。

「音のコードで誰なのかを教える」方式との違いがここで分かれる。あれは名札で、これはである。


まだ叩いていない扉

深く掘れなかったが、捨てるには惜しいものがある。

鼻の奥の空洞。蝶形骨洞は視交叉から数ミリの距離だ。鼻を通って入れるので、頭蓋骨を開けずに脳の中へ場所を確保する道になる。なぜ誰もやらなかったか。脳を扱う人は「埋め込み=開頭」と考え、鼻を扱う人は視覚のことを考えないからである。

デンキウナギのように見る方法。電気魚は体の周りに弱い電場をつくり、その歪みで周囲を把握する。人間にも同じことができればカメラ自体が要らなくなる。暗さもプライバシーの問題も丸ごと消える。水中生物の感覚なので、空気中で試した人がいないだけだ。

角膜の上に描く。角膜は人体で感覚神経がもっとも密な表面の一つだ。指先よりずっと密で、しかもすでに二次元の平面である。コンタクトレンズ型の電極で角膜の上に顔を描くことができる。視覚経路ではないが、解像度だけなら体で最高だ。角膜は「触れてはいけない場所」として扱われるが、コンタクトレンズはすでに何億人もが毎日つけている。

盲視の脇道を狙う。視覚野が損なわれても上丘を経由する道が残り、意識しないまま位置と動きに反応する。この現象はこれまで研究の対象ではあっても通り道とは見なされてこなかった。

脳のリズムに拍を合わせる。脳が刺激を受け入れやすい瞬間が周期的に訪れる。その瞬間に合わせて撃てば弱い刺激でも通る。ただで手に入る利得なのに、誰も拾わない。

声と顔を結びつける。脳の中で声と顔は隣り合っている。繰り返し一緒に経験させれば、やがて声だけで顔が浮かぶ。そうなれば装置は確認するだけでよい。もっとも、装置を売る会社は装置があまり要らなくなる設計をあまりしないのだが。


まず尋ねるべき問い

ここまでが考えである。あとはどれが本物かを見分ける番だ。

ところが幸いな点がある。いちばん新しいアイデアほど確かめやすい。まだ誰もやっていないということは、裏返せば、最初に立てるべき問いがまだ単純なまま残っているという意味だからだ。

幻視は操縦できるのか。シャルル・ボネ症候群のある方に、幻視が見えている最中に音や触覚の刺激を与え、内容が変わるかを伺う。面談と記録があればよい。

交点はどこまで小さくできるのか。頭部モデルに電場計算をかける。人に何も当ててみる前に、計算だけで干渉の筆が生きるか死ぬかが決まる。

顔の発信機を人々は受け入れるか。技術的には何の問題もない。ただ尋ねればいい。「ご自身でスイッチを入れて送る方式なら、なさいますか」と。

声で顔が浮かぶのか。中途失明の方に知人の声を聞かせ、顔がどれほどはっきり浮かぶかを伺う。

もちろん機材が要るものもある。低解像度の顔で実際の知人識別率を測ること、角膜に描いた形が区別できるかを確かめることなどだ。しかし先の四つが先である。

いちばん新しい四つのアイデアの生死が、人に問いを一つ投げることで決まる。それなのに、誰もその問いを立てたことがない。

この文章でも行けなかったところ

次の発想の種としていくつか書き留めておく。

  • 顔専門の回路を直接狙う。顔だけを処理する回路が脳に別にあるのに、誰もそこを狙わない。視覚野を経ずにそこだけを刺激すると何が起きるのか。
  • 先天盲はまったく別の問題だ。一度も見たことがない人の視覚野は、すでに別の仕事をしている。この文章は事実上、中途失明だけを扱った。
  • 複数人で使うと。あらゆる設計が「一人が装置を使う」を前提にしている。複数の人が同じ空間情報を共有すると何が変わるのか。
  • ゆっくり積み上げてよい情報。あらゆる設計がリアルタイムを前提にしている。情報によっては数分かけて少しずつ伝えてもよい。
  • 外してよい装置。訓練が終われば要らなくなる装置。声と顔を結びつける方法がその方向だ。

最後に

骨伝導がすごいのは新しい感覚をつくったからではない。すでにある仕組みの前の方だけを飛ばしたからだ。だから覚えることがなく、だからただの音として聞こえる。

視覚でその場所を探す作業は、まだ終わっていない。

ただ今回分かったことがある。その場所は一つではなく複数だ。どこが壊れているかによって入る扉が違う。そしてそのうちのいくつかはまだ誰も叩いていない。

もっと重要なのはこれだ。その扉のうち四つは問い一つで開くか閉じるかが決まる。

今できることがある、ということである。


参考資料

著者の以前の文章
安承源、透明人間プロジェクト:私が見つけられたくない空間(2026-05-28) — この文章が裏返した原典。
安承源、思考だけでソフトウェアを操作できたら — 答えが脳ではなく首にある理由(2026-04-18)。

交差刺激
Grossman ら(2017)、Cell。二つの高周波電場を交差させ、頭蓋骨を開けずに脳の深部だけを刺激することに成功。マウス実験。この原理を視覚に適用した研究はまだない。

脳が自らつくる視覚
シャルル・ボネ症候群 — 視力を失った人に現れる鮮明な幻視。視覚野への入力遮断にともなう自発活動として説明される。これまで抑制の対象としてのみ扱われてきた。
標的記憶再活性化 — 睡眠中に特定の音を聞かせると、関連する記憶が強化される。
盲視 — 視覚野が損なわれても上丘を経由する脇道が残り、意識しないまま位置と動きに反応する。

顔がどれほど少ない情報で認識されるか
Harmon & Julesz(1973)、Science。リンカーンの肖像を粗い四角に潰しても見分けられる。顔の認識は細かい模様ではなく、大づかみな明暗の配置で成り立つ。
カリカチュア優位効果 — 特徴を誇張した顔のほうが実際の写真より速く識別される。
紡錘状回顔領域 — 顔専門の回路。進入地点から先の経路が生きていれば、顔の判定はこの回路が行う。

視覚がすでに使っている仕掛け
トロクスラー効果 — 眼の微細運動がないと、静止した像は数秒で知覚から消える。
感覚間可塑性 — 視覚を失うと、視覚野が他の感覚入力に反応し始める。

入る場所の解剖学
角膜は人体で感覚神経の密度がもっとも高い表面の一つである。
蝶形骨洞(鼻の奥の空洞)は視交叉とミリ単位で近く、鼻を通って到達できる。
網膜神経節細胞の軸索の約一割は、外側膝状体ではなく上丘へ向かう。
能動電気定位 — 電気魚が自らの電場の歪みで周囲を把握する方式。


この文章の性格 — これは完成した設計ではなく考えの記録である。ここに書かれたことの大半はまだ誰も試しておらず、したがってできるのかできないのか分からない。答えを一つに絞らなかったのは意図してのことだ。絞る作業は、前述の問いが答えを出したあとにやることである。

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